日本の郡[編集]
古代
古代の郡は、律令制の行政区画で、国(=令制国)の下に置かれた。『日本書紀』は、大化の改新の時に郡が成立したと記すが、当時は実際には評(こおり)と言っていた。大宝律令の成立の時に郡となり、かつての国造などが郡司となって管轄した。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡が在ったとされる。単位系では、郡の下に郷、郷の下に里が置かれた。
しかし10世紀には、筆頭国司である受領の権力強化などにより、郡の機能は低下し始めた。11世紀には、荘園が一円領域化して国衙の支配から自立し、郡の管轄からも外れて行った。国衙の側も残された公領を再編成し、下部に郷を組織した郡から国衙に直結した、郡、郷、保、院、条、別名などの並立体制となった。これらには管理者として郡司、郷司、保司などが任命され、武士がその任に就く事が増えて行った。
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中世・近世
鎌倉時代になると、国内に並列する荘園、郡、郷、保などは、管理者である荘司、郡司、郷司、保司らの多くが御家人となり、地頭に任命され、武士たちの基礎的な領地の単位となった。
戦国時代には、大名の領国に対する支配強化の一環として、郡単位での支配郡ごとに郡代がおかれるようになった。江戸時代にも、各藩と江戸幕府は、郡を地方統治の単位として用いた。
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近現代
明治初年の郡は地理的区分に留まっていたが、1878年の郡区町村編制法で行政区画としての郡が復活した。同法は、府県の下に郡を置いて、郡長を任命する事を定めた。この時に、大きな郡を分割したり、小さな郡同士で合併したりした。郡は自治体ではなく、郡長以下は中央政府の官僚であった。郡の役人が勤務する役所は、郡役所といった。
1890年に郡制が公布された。郡は府県と市町村の中間の地方公共団体として規定され、郡会が置かれ、郡会議員が選挙された。1896年に沖縄県に郡が編成された。
1921年には郡制廃止法が発布され、1923年に郡会が廃止され、1926年に郡長と郡役所が廃止されると、郡は再び単なる地理的区分になった。戦時中の1942年には、内務省告示によって、北海道以外の全ての府県に、府県の出先機関として地方事務所が設置された。地方事務所は、原則として郡を単位にして設置されていたため、事実上、郡役所が復活した形となった。
戦後の1947年施行の地方自治法では、地方事務所・支庁などの都道府県の出先機関は、各都道府県が条例によって設置・廃止する事ができるようになり、地方事務所を廃止した県や、区割を変更した県もある。
現在の郡は、住所表記や、広域連合体(広域行政圏)の範囲、都道府県議会選挙区の区割などに用いられるに留まる。地方自治法には郡に関する規定は設けられていないが、郡の廃置分合は都道府県が権限を持ち、条例で行う事となっている。尚、島嶼部である伊豆諸島と小笠原諸島は、東京都に編入されているが、郡は設置されていない。
実効的な行政区分として機能していた時期が長くないため、地域の概念の変動は少なく、奈良時代以来の名称や区域を継承している土地も多い。但し、明治初期に行われた郡の合併の際に、旧郡名を合成して新しい郡名が作られたものもあり、又、合併・分割を繰り返して、本来の郡域とは異なる郡域となっている郡もある。
明治以降の郡に、市や東京23区は属しない。そのため、町村に市制が施行されると、その範囲は郡域から除かれる。はじめのうち市の範囲は純粋に都市部に限られており、市部と郡部は市街化された地域とそうでない地域に対応していた。
しかし後に合併によって市町村の面積が広がると、市も広い農山村部を抱え込むようになり、郡との区別の意義は薄れた。こうなっても市が郡から除かれることに変わりなかったため、市の増加・拡大にともなって多くの郡が消滅した。平成の市町村合併では、合併でできた市が明治時代の郡に相当する面積を持つこともめずらしくない。
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関連項目消滅した郡の一覧 評 郡代 郡司 市町村 市 - 町 - 村 県 国府 - 国衙 [編集]
外部リンク郡の変遷