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【轉帖】街庄名之改善【轉帖】 [复制链接]

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只看楼主 倒序阅读 0 发表于: 2009-05-30
「地名稱呼改正の議」

『臺灣日日新報』明治四十三年十一月六日


 凡そ一地の地名は可及的その歷史に從ひ區域は地形によるべきことは原則の命ずる所なり、然れども此種名稱區域も交通の發達或は行政上の關係よりして之を變更改正せざるべからざるに至る、我が國に於ても國名の如きは今日に於て全く地理上の名稱なりしと雖も往古より國郡の名稱區域の變更されたる者舉げて數ふべからず、維新後に於ても市町村制實施の際に於ける大廢合を初め幾多の小改稱は枚舉に遑あらず、即ち地名區域の原則も時に應じて之を變更せざるべからざるは明なる例證なり。
 我臺灣地名の稱呼の難澀にして亂雜なるは何人も苦む所にして其區域の如きも各廳の下に或は堡と云ひ或は里と云ふあり街といひ庄と云ふが如きは內地の町といひ村と云ふに適すとするも其區劃の大小大略相似たる者直ちに內地の郡區市町村を以て呼ぶも只從來此地の原住民が稱呼し來れる者を一度變改すると云ふの外他に大害を及ぼすなかるべく、しかも其改正は國家觀念の統一上頗る必要あるを見るなり、其地名の如きに至りても支那人を以てするも頗る親み易からざる字を用うる少からず、現に近く臺北に於ける大加蚋堡の如き土名に音譯を加へたりと云ふの外殆んど他の意義あるなく、しかも難解の文字を連ねて生面の人を惑はしむるに過ぎず、最もこの種の文字この種の稱呼はなほ琉球北海道等に於て多く其痕跡を留むと雖も、今や年々之を減じて次第に新しき優美の名に改められ難澀の文字は其發音と共に歷史を語る古名と化しつつあり、我が臺灣に於ても之が改稱を要すべき者何ぞ大加蚋堡のみならんや、更に徒らに古名を襲用するの餘り植民地の原住人と其新領者との間に稱呼を異にするあり、從つて一般世界的の地理名として頗る疑惑を抱かしむる者あり、臺北なる地名の如きも或はタイホクと日本音を用うるあり或はタイペと支那音に依るあり、幸にして臺北の如き著名の地は我が官廳に於ても一定の發音に從ひしと雖も、幾多小地方の地名に至りては殆んど適從する所を知らざらしむ若し夫れ原住民の便宜の為と云ふに至りては現在の文字に對して發音するに當り凡て從來の音に從ふを可とせざるべからざるもこれ卻つて改隸の意義を完成する所以に非ざるべきなり。
 凡そ新領土の地名に對する名稱は其領土に對する統治政策によりて種種の方法ありと雖も獨逸のエルサス、ロートリンゲンに於るが如き悉く其舊稱呼を改めて自國の名稱を用ゐしめ露國の西比利亞に於ける亦土名を廢して殆んど新命名をなせる如き者は全く根本的の變更なりと雖も、幸に我が臺灣の如きは母國と其文字を同じうして土地命名の形式も亦略相似たる者あり、而して其地名の如き其命名者たりし清國にさへなほ見ざる難澀の者多く臺灣の土民さへ既に其の煩に堪へざらんとする者少からず、これ早晚地名稱呼の大變更を要するを示す者と云ふべし、樺太の如きは領有後幾くもなく直ちに其地名を改正したり我が臺灣に在りては領有後既に十五年諸設備の著著其步を進め交通教育行政上の利害全く當時と異れる今日地名稱呼改正の議も亦研究に值すべき者なるべし、これ獨り形式の問題に非ず、統治の覺悟と民心の統一とは此種形式の末より發生するなきを保せず、而してこの問題は獨り臺灣に於ける問題たるのみならず、最新領土たる朝鮮にも亦考究せざるべからざる所なりとす。
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 1 发表于: 2009-05-30
「街庄名與改正」

『臺灣日日新報』大正九年八月十七日


日前發布府報。所有街庄名多所改正。蓋以其多字畫。不便稱呼。且俗不足道者。先斟酌各該地之有力家意見。種種研究。而後為之。實施之期。為來十月一日。至是尚要改正。如錫口之多松幾冠全島。可改為松山。水返腳。以水迴蓄。可改為潮留。嘉義店仔口。為白溪水通流之地可稱為白河。其他一切。方在調查。至來十月一日改稱者尚有百以上云。
[ 此帖被mona在2009-07-05 21:16重新编辑 ]
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 2 发表于: 2009-05-30
「地名の改正には人知れぬ苦心が潛む
 地方に一任するとなると同じ名前が續出すると下村長官は談る」

『臺灣日日新報』大正九年八月十一日


今回の制度改正に關して當局の一方ならざる苦心を要しつゝあるものゝ中に各地方の地名及び稱呼があるが之れにつき下村長官は語つて曰く「今度の制度改正で地名などの呼び惡い語呂の惡いものや餘りに字畫の多く又何んと讀んでよいか一寸判り惡いものなどは其の固有名を變改することゝし今までも大分變改しはしたが漸次街庄名などを調查して見ると讀方などにも殆んど想像の附かぬものが卻々に多い、字書などを繰つて見ても見附らない字が所々方々の地名に用ゐられてあるが是等は此の
機會を利用して是非何んとか適當な名稱に變改し度い、又同じ名稱の二つも三つもあるものがある例せば六張犁の如き茄苳腳の如き皆ダブツて居るから是等も二ツ置くとマギレ易くもあるし種々不便も起つて來るであらうから一ツにするか又は兩方とも全然別名のものに變改するかである、此の地方名の變改については何處でも贊成で、是れは不可ないから外の名に變へて欲しいと言つて希望を申出でる所は數ふるに遑あらずと云つた風であるからツイソのこと其の地方々々任せてもと思つたが左樣すると各々勝手に自分の好きな名稱を附することゝなる結果
高砂などと云ふ地名が其處からも此處からも出て來るだらうし又地方々々に由つて後と先きになつたりして一度に出揃はぬ弊もあり又其の地方の勝手な地名のみを附けられても始末に附かぬから何うしても此方で適當に同名の呼稱などがダブラぬ方法を取るより外に良策がないので今調查しつゝあるがまア在來の地名の字でよく所々に使はれて居る[上艸下寮]の字の如きも上部の草冠を取つて使用することに定めたが份、仔の字の如きも右方の人扁を取つて左方の旁のみを使ふことゝし崗の字は山を取つて岡の字支けを又坡と陂とは坡の方を使用すると云ふ大體の
方針を定めて其れに由つて行つて居るが、多くの中には康熙字典にもないと云つた變テコな字を其の地名に使つてあるが是れ等も相當文字ある者には一見其の地名の何んと讀むのであるかが判るやうに變改したいと思ふ。今度出來た三市の中で臺南と臺中とは既に內地式に改名されてあるが臺北はまだ全然手を附けて居ないので今度は其の町名を改正することになるであらう。それから三十幾つかある
 街長を內臺人何にするか
と云ふことも屢ば聞くことであるが其れは其の處の狀況如何に由つてゞある、何處は內也人彼處は本島人と云ふ風に區別を立てる必要はない。要するに其の土地に於ける人物本位である、又街長の中十人は奏任待遇と為すことが出來るやうに為つて居るが是れは內地では全く見られないものである。臺灣と云ふ特別の地であるので內地でも其れを認めたのであらう。全く異數の例である
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 3 发表于: 2009-05-30
「地名の改稱は相當の苦心らしい
 璞石閣の玉里はいい手本」

『臺灣日日新報』大正九年八月十一日


本島の地名には隨分難かしいのがある、それは蕃名を直ちに取つて漢字に當て嵌めたのが多いから頗る厄介である、それで今次の官制改正に依つて管轄區域の發表と共に大分改稱せられたものがある、其の一例を舉ぐると今次玉井と改稱さるゝ臺南廳の[左口右焦]吧哖の如きそれである、之等の改稱には相當頭腦を絞つて苦心されたものと思はれるが其の中にも氣に入つたのは
蕃薯[上艸下寮]を旗山と改稱したのや葫蘆墩を豐原と改めたなど甚だ聞えがいゝ旗尾山を有するが故に蕃薯[上艸下寮]を旗山と稱し葫蘆墩米の產地たるが故に瑞穗を取つて豐の秋の豐原も面白い嬉しい地名だ、又た虎尾溪に因つて五間厝を虎尾と改め、新化の堡名に因つて大目降を新化と稱すなどは餘り芳ばしくはない、新竹廳竹南及び竹北堡を取つて樹杞林を竹東とし中港を竹南としたのはこれも妙とは云へない
大嵙崁を大溪と稱し林杞埔を竹山と云ひ牛罵頭を清水と呼ぶも無難であるが埔里社を埔里街と改めたなどは一考を要したいと思はれた、要するに同じ改稱するならば思ひ切つてやつて欲しい、試みに四十七郡の內から選り出すと
七星、淡水、文山、海山、新莊、新竹、桃園、豐原、大甲、新高、竹山、東石、高雄、岡山、鳳山、旗山
先づ以上の名は可なり聞えがいいが之に反して頗る
不感心なのは基隆郡、彰化郡、員林郡、新化郡、苗栗郡、宜蘭郡、虎尾郡、嘉義郡、羅東郡、蘇澳郡などで頗る聞き苦しい序でに之等も改稱したら宜からう、又た最つと小さくして庄名の如きは殆んど改名がしたい程でこれ等は追つて州廳に於て漸次改稱する事と思ふが、この改稱もなかなか面倒である、花蓮港廳に新らしく置かれた研海支廳の如きは故佐久間總督の號を紀念したもので例の新城平野に之を用ひたのは鳥渡面白いやうでもよく考へると故佐久間總督の紀念としては餘りに小さい感がある、のみならず太魯閣討伐の際此地は主として警察隊の活動地であるから其の大さから行くもこれは總督より故龜山理平太氏の紀念として龜山支廳の方が適して居るやうだ、何にしても改名は存外難づかしいものであるが、この改名の標準として認めたいのは先年改稱した花蓮港廳の玉里である、これは舊名璞石閣から改めたもので玉里とは最もよく改稱したと思ふ、玉里と云ふ文字には舊名璞石閣が生きて居る、改稱は多くこんな風に行きたいものだ
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 4 发表于: 2009-05-30
「新制度與地名改正
 務使雅醇有意味便稱呼
 下村長官談」

『臺灣日日新報』大正九年八月十一日


此番制度改正。當路匠心獨運。概可想見。下村長官。特就各地名稱呼。而言之曰。凡地名不便稱呼。或字面不雅。無意味。而多字畫者。悉欲改之。大抵就緒焉。一考街庄名。多有出人意表。其中有字書所不載。須委為改正。有同一名稱而兩者。譬如六張犁茹苳腳。重疊不便。當擇其一而存之。或當全改之為別名。夫地名之改正。地方人多有此是而彼非。述其希望而來。然此豈可任其所好。欲以高砂冠其地名者。大有其人。此亦未可遽聽。故唯有擇其妥而名之。並去其重疊。而便於稱呼者為要。舊時地名。如[上艸下寮]字。冠以草頭。茲擬去之。如份仔等字。亦將去其人傍。崗字。亦務去山取岡。其中多康熙字典所無。一欲妥改令人一讀。便知其地名之取何義。中南北三市之中。如中南兩處。既改名內地式。臺北街名。此後亦擬改之。其次屢聞三十餘處之街長。不知由內臺人中。將何選任。何處內地人。何處本島人。不須區別。要取其地之人物為本位也。街長中十人。為奏任待遇。此在內地所無。而特有於臺灣。可謂異數也云云。
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 5 发表于: 2009-05-30
「本島地名改稱」

『臺灣日日新報』大正九年八月十二日


本島地名多以蕃名而直譯為漢字者。今因官制改正。並管轄區域之發表。大抵皆被改稱。姑舉其一例。如改稱為玉井之臺南廳[左口右焦]吧哖。實絞有相當之頭腦者。其改稱蕃薯[上艸下寮]為旗山。葫蘆墩為豐原。一則以蕃薯[上艸下寮]原有旗尾山之故。一則以葫蘆墩為產米地。取其如豐秋之原也。餘如因虎尾溪而改五間厝為虎尾。因新化堡而改大目降為新化。與夫以樹杞林為竹東。中港為竹南。大嵙崁為大溪。林杞埔為竹山。牛罵頭為清水。是亦有巧妙存焉。至于花蓮港所新置之研海支廳。蓋用故佐久間總督之別號。以為紀念。太魯閣罰伐之時。總督欲為故龜山總長之紀念。而為龜山支廳。其改名固難。惟改名標準之可見者。前年改稱有花蓮港廳之玉里者。亦就舊名之璞石閣。而改之者也。
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 6 发表于: 2009-05-30
「街庄名之改善(上)」

『臺灣日日新報』大正九年八月十三日


此次地方官制改正。各街庄中有未雅者。有類同費解者。皆乘機改正。頗著利便。茲為摘錄如左。
▲臺北州下淡水郡之小基隆庄。改為北芝庄。以避與基隆混同。小八里坌庄改為八里庄
基隆郡下槓仔[上艸下寮]庄改為貢寮庄。頂雙溪庄改為雙溪庄
宜蘭郡下民壯圍庄。改為壯圍庄
羅東郡下叭哩沙庄改為三星庄。冬瓜山庄改為冬山庄。
文山郡下坪林尾庄改為坪林庄。
海山郡下枋橋庄改為板橋庄。蓋枋字非正字。板橋較雅。(人跡板橋霜及鄭板橋等)枋[上艸下寮]庄改為中和庄。鶯歌石庄節去石字。三角湧為三峽庄。
新莊郡下和尚洲改為鷺洲庄。五股坑為五股庄。樹林口為林口庄。
▲新竹州新竹郡下大湖口為湖口庄咸菜硼為關西庄(取咸菜與關西和音同也)六張犁庄為六家庄紅毛港庄為紅毛庄。
中壢郡下安平鎮為平鎮庄。楊梅壢為楊梅。石觀音為觀音庄。
桃園郡下蘆竹厝為蘆竹庄。大坵園為大園庄。龜崙口為龜陵庄。八塊厝為八塊庄
大溪郡下大嵙崁改為大溪街龍潭陂為龍潭庄。
竹東郡下九芎林為芎林庄。月眉庄為峨眉庄。草山庄為寶山庄。
竹南郡下頭份庄為頭分庄。
苗栗郡下崁頭屋為頭屋庄。銅羅灣為銅羅庄。三叉河為三叉庄。
大湖郡下罩蘭庄為卓蘭庄。
▲臺中州大屯郡下大里杙改為大里庄。三十張犁為北屯庄。西大墩為西屯庄。犁頭店為南屯庄。
豐原郡下葫蘆墩為豐原街。神崗庄為神岡庄。埧雅庄為大雅庄。潭仔墘為潭子庄
東勢郡下石崗庄改為石岡庄
大甲郡下牛罵頭改為清水街。沙轆庄改為沙鹿庄。茄投庄改為龍井庄。
彰化郡下南門口庄改為南郭庄。大竹圍庄改為竹圍庄。和美線改為和美庄。下見口改為線西庄。埔姜崙改為秀水庄。茄苳腳為花壇庄
員林郡下大庄改為大村庄。大埔心改為坡心庄。關帝廟庄改為永靖庄。田中央改為田中庄。二八水改為二八庄。
北斗郡下番挖庄改為沙山庄。大城厝改為大城庄。內蘆竹塘改為竹塘庄。溪洲庄改為溪州庄。
南投郡下草鞋墩改為草屯庄。湳仔庄改為南子庄
能登郡下內國性庄改為國姓庄。
竹山郡下林杞埔改為竹山庄。羌仔[上艸下寮]改為鹿子庄
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 7 发表于: 2009-05-30
「街庄名之改善(下)」

『臺灣日日新報』大正九年八月十四日


▲臺南州下新豐郡仁德庄(舊塗庫庄)關廟庄(舊關帝廟庄)永康庄(舊埔姜頭庄)安順庄(舊安順[上艸下寮]庄)
新化郡安定庄(舊直加弄庄)善化庄(舊灣裡庄)山頂庄(舊山仔頂庄)玉井庄(舊[左口右焦]吧哖庄)楠西庄(舊茄拔庄)南化庄(舊南庄)
曾文郡官田庄(舊官佃庄)大內庄(舊內庄)
北門郡佳里庄(舊蕭壟庄)西港庄(舊西港仔庄)七股庄(舊七股[上艸下寮]庄)北門庄(舊北門嶼庄)
新營郡鹽水街(舊鹽水港街)柳營庄(舊查畝營庄)後璧庄(舊後璧[上艸下寮]庄)店口庄(舊店仔口庄)
嘉義郡水頭庄(舊水堀頭庄)溪口庄(舊雙溪口庄)大林庄(舊大莆林庄)梅子庄(舊梅仔坑庄)竹頭庄(舊竹頭崎庄)番路庄(舊番仔路庄)大埔庄(舊後大埔庄)
斗六郡古坑庄(舊庵古庄)他里庄(舊他里霧庄)大埤庄(舊大埤頭庄)莿桐庄(舊莿桐港庄)
虎尾郡二崙庄(舊二崙仔庄)海口庄(舊海口厝庄)
北港郡水林庄(舊水燦林庄)
東石郡朴子街(舊朴仔腳街)六腳庄(舊六腳佃庄)東石庄(舊石港庄)布袋庄(舊布袋嘴庄)鹿草庄(舊鹿仔草庄)義竹庄(舊義竹圍庄)
▲高雄州下高雄郡高雄街(舊打狗街)燕巢庄(舊援巢中庄)楠梓庄(舊南梓坑庄)
岡山郡岡山庄(舊阿公店庄)阿蓮庄(舊阿嗹庄)路竹庄(舊半路竹庄)彌陀庄(舊彌陀港[上艸下寮]庄)
鳳山郡港子庄(舊港仔墘庄)大樹庄(舊大樹腳庄)鳥松庄(舊鳥松腳庄)
旗山郡旗山街(舊藩薯[上艸下寮]街)美濃庄(舊瀰濃庄)杉林庄(舊山杉林庄)甲仙庄(甲仙埔庄)
屏東郡屏東街(舊阿緱街)高樹庄(舊高樹下庄)六龜庄(舊六龜里庄)里港庄(舊阿里港庄)九塊庄(舊九鬼厝庄)
潮州郡港西庄(舊頓物庄)新埤庄(舊新埤頭庄)
東港郡林邊庄(舊林仔邊庄)佳冬庄(舊茄苳腳庄)
恆春郡滿州庄(舊蚊蟀庄)
澎湖郡馬公街(舊媽宮街)白沙庄(舊白沙島庄)望安庄(舊網垵庄)
以上若臺南之新豐郡使人喚起馬周獨酌之聯想。舊[左口右焦]吧哖改為玉井。一變其南蠻鴃舌使人飄飄欲仙。查畝營舊為勘查田畝之處。改為柳營從簡也。東港郡之茄苳腳庄。改為佳冬庄。與恆春成一妙對。澎湖郡下網垵庄改為望安。覺海上生活之人。宛然若睹及南非洲之喜望峰角也。總而言之。此次之改正務排去難澀鄙陋冗長重複之處。重複者如月眉他處亦有。故不得已將竹東郡之月眉改為峨眉。又此次地名三字以上者悉改為二字。如北部鶯歌石改為鶯歌。中部之三叉河者改為三叉。有詩化者如和尚洲之鷺洲枋橋之板橋。三角湧之三峽。月眉庄之峨眉等。有和化者打狗之高雄。田中央之高中之葫蘆墩之豐原云。(完)
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 8 发表于: 2009-05-30
「呼び惡い街庄名は今後どしどし改正」

『臺灣日日新報』大正九年八月十六日


新制度に由る各地方の街庄名にして字畫餘りに多く且つ稱呼し惡きものと心附きたるものに對しては過日の府報にて發布前其の改正地名地方の有力者等の意見をも徵して參考と為し種種研究したる結果改稱せられたるものも少なからざるが、實施期は來る十月一日なれば其れまでには尚ほ舊稱名の改稱せらるるものの之れあるやにて錫口の如き全島隨一の松の多き所なるに依り之れを松山と改稱すべく又水返腳は腳の字を削除して水返と一旦改稱したるも水返とは何うしても水の邊と云ふ風に聞えるに由り之れを潮留と改稱するに決したりと云ふが其の潮留の由來は同所を流がるる基隆川は丁度彼所にて留まるに由つて此の名を附することと為れるものなりと尚ほ嘉義の店仔口は白水溪の水が丁度同所を流るるより之れを白河と改稱することと為れるが此の外呼稱字畫等の餘りに面倒なるものはドシドシ適當なる稱呼に舊地名を改稱する方針にて當局にては目下其の調查を為しつつありと云へば來る十月一日までには郡の新稱及び街庄の改稱せらるるもの全部にては百以上に達するに至るべしと
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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只看该作者 9 发表于: 2009-05-30
「地名改稱に就て」

西川義祐

『臺灣日日新報』大正九年八月三十一日


 臺灣の地名は土地調查の砌、附せられて居る、言ひ換ふれば在來のものを庄の數だけ結び附けたるのみである、その後、唯最近、臺中市と臺南市に純內地式の町名が附せらるることになつた、東轅門街とか竹仔腳とかであつたのを壽町、大宮町、柳町と云つた樣に改めたので、何んの批評も出來る譯合のものでなかつた、西洋人に和服を著けさせて胸が張るとか、肩が怒るとか云ふ樣なもので、振袖を引きちぎりて筒袖としたり、襟にレースの飾りでもあるまいから、その儘にするより外はない。今んどのはさうでない、在來のものを切りちぢめ又は畫の多き字を少なくした位ゐのもので臺灣人が臺灣服を著けたに過ぎぬ、だからその心算で行丈や著こなしを批評して差支はない樣に想はるる
 上下揃ひたるものが不揃になる雙溪(頂雙溪)大浦(後大浦)
頂雙溪は上流の合流地點に、下雙溪は下流の合流地點にあり、今は下雙溪のみ不釣合に殘れり、後大浦も後の字を除かれ前大浦を孤立せしめたり
 場所と名と不釣合のもの 三峽(三角湧)大內(內)柳營(查畝營)滿州(蚊蟀)
三角湧とは河浪の音づるる三角洲の意なり、支那の三峽の如き嶄立せる懸崖や幾尋を知らぬ奔潭はない、風致と雅趣の異ることは誰れにも首肯さるる、三峽は三漣庄位が相當である。大內は永平庄、柳營は營跡庄又は劉家庄(劉一家の集團地)、蚊蟀は文立庄と改め將來蕃童を撫育すべくあやかりて命名するもよし
 字を略する為、意味の深きものを除き無意義の庄名となりしもの大園(大坵園)頭屋(崁頭屋)草屯(草鞋墩)北門(北門嶼)梅子(梅仔坑)東石(東石港)布袋(布袋嘴)(是の種は尚多し)
大坵園とは大きな坵の上の[左火右田]である、坵を取ては此村には特徵がなくなる、崁頭屋とは崖の先の家と云ふ意味である、崁の字を除きては「先きの家」で不明暸である。草鞋墩とは草鞋即ちワラヂを其地ぬいで集團したのである、臺中地方より漸次山手に向ひて開墾せんと志ざした人々が茲に土地を發見して開墾を創めたのである、とも云へば、此の地を經過する人々は必ずここに立寄つたとも云へる、草鞋の草の字のみ取りて草屯とすれば草村である、大變な相違になる、北門嶼は鯤身とか鹿耳門とか云ふ臺南廳の沿岸に昔日橫はりし島の內にて北部に位するものであつた、今は地續きとなりたるも往昔を語るべく嶼の字は大に力を持つて居る唯北門では那位の北門だか明らぬ、梅仔坑の坑東石港の港布袋嘴の嘴の字を除けば全く意味をなさぬ、例令梅仔は楊仔でも東石は西石でも布袋は木箱でも關まはぬ、唯坑と港と嘴とにその庄を語る特殊の力がある
 日本音にもじりて附け面白き樣にて反つて面白からざるもの
 咸菜硼の關西となりしも突然關西なるものが生れ出でたれば後の人は關の所在に苦しむであらう、この地は內地にて云へば〇〇谷村福建人では〇〇坑と云ふべき所である。又茄苳腳の花壇となりしものも、彰化と員林との中間驛、花も實もなき一小村のこととて他の名稱の適するのを選ぶに如かず
 改稱を望まぬ新名、觀音(石觀音)後龍(後壟)沙鹿(沙轆)南子(湳仔)
浪花の堀江より網にかかりて善光寺に納められたる閻浮陀金でもなければ、一寸八分の淺草の黃金佛でもない、野中の石地藏の樣な不細工の石の觀音樣である、他にも觀音坑とか觀音何々の庄があつたやうだ、石觀音はそのままで個有の或る意味がある樣に想はるる、後壟の壟はドテである、沙轆の轆は車である、ドテを龍に換へ車を鹿に換へるのは、如何に改造の今日とてすさまじい次第である、況んや後龍、沙鹿なる動物は古往今來承はつたことはない、湳仔は水多き所、濕潤たる土地にして、本島人はづぶづぶに脛の入る田を湳田と云ふ、內地では恁んな所をさしむき水澤村とでも名付くべき所である、それが南子と改められた、南子とは一體何んな意味であるか、人の名か、植物の名か將方向を指すものか飛んだ奇妙なる字を見附出したものである
 一體今度の地名改稱に就きて仔の字は盡く子の字に改めてある、子の字は獨立して意を為すものである、仔の字は獨立して意味をなさない、而して子と仔は稀には僅かの意や少さい意味の共通の意を持つも地名に就きては絕對に共通の意味がない、總て仔の字は語尾の音をなだらかにする為に設けられたる助音である、潭仔=タムアア=タマアと響き、槓仔[上艸下寮]=コンアアリアウ=コンガアリアウと響き、湳仔=ラムアア=ラマアと響き、鹿仔草=ロクアアツアウ=ロガアツアウと響き、朴仔腳プウアアカア=プアカアと響く等、仔の字は唯音を軟かにするのみにて他の意味を含んでは居ない、若し潭仔を潭子となせばタムツウ、湳仔を湳子となさばラチツウ等臺灣語では讀み得るも、其の意味は全く解くことが出來ぬ、是れは全く意味のない字に意味のある字を差し換へたるより恁んな[左夜右鳥]的の地名が出來た、仔の字に付きて今少しく云はんに鴨仔囝、鵝仔囝とて囝は子供の意、仔は中間にありて鴨や鵝の語尾の音を助くるのみである以上述べたる所にて仔の字を子の字に換ふることは絕體に無意味のものとなる
 然し百二十餘の改稱地名の中には北芝、峨眉、龍井、南郭、永康、安順、安定、善庄、望安、高雄、汐止等は快心の名稱である、但し基隆や打狗の等き國際的地名は餘り易ふべきものではあるまいかの如く思考さるる、唯タアクウ、タアカウ、タアケウ等の音がタカオの音に似たることが先づ上上吉である尚關帝廟は關羽を祀りしものなれば自分等內地人より關廟として少しも差支へなき樣なるも本島人は關帝爺と云ひ關姓のみは決して呼ばぬ丈けかく尊敬して居るものなれば矢張帝の字は除かぬが至當の樣に見受らる、若し惜んで簡短なるを欲せば武廟庄として改むるに如かず
 臺灣の地名は內地のそれより實際的に出來上つて居る、鄭氏が臺南地方より拓殖せし故か南部(臺南より鳳山にかけて)は、文德、崇德とか宜化、歸仁とかそこに文字が洗練されて用ひられて居る、北部はさうではない、さうして三塊厝、六張犁、一結、頭圍等は三三五五或は集團して開拓したる當時の地名である。茄冬腳、苦苓腳等そこに目標のいちじるしきものを採りて稱名したるものがある、崙仔、溪洲、崁腳、竹圍、埤頭等土地の形狀に從ひたるものもある、吳厝、廖厝等土地の開拓者又は同姓の集團によりて名附けられたるものもある、恁んな風に名稱は俗惡で趣味のあるものはないが實際的に成立つて居る、自分は唯本島人が改稱したる地名を言ひ慣ふべく甚だ遲遲たるものであることを熟々想ひ及んで居る、嘉義とは、林爽文の叛亂當時諸羅の人々は其の府城に立籠りて節義を全うしたるより乾隆皇帝より賜りたる地名である、然し附近の人々はツウラアサンとかソア(山)とか云つて此の名譽ある嘉義なる名稱を餘り用ひざるには一驚した、又苗栗三堡に馬鳴山即ちマアベンソアと云ふ處がある然し土地の人はマアリンサンと云ひ又線東堡に和美線即ちホヲビイソアと云ふ所がある。然し附近の人々はラリサンと云つて居る、マアリンサンもラリサンも蕃語である、丁度私々が基隆をキイルンと呼び艋舺をマンカと呼ぶやうに、傳習的に二百年も三百年も平氣で呼んで居る、實際平氣で呼んで居る
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Richter 威望 +1 - 2009-06-11
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「地名私議」

『臺灣日日新報』大正九年九月二十四日


從來地名。經已改新。化俗為雅。就中不無杜撰未妥處。姑就所當改者揭其一二。以備後日之參考。如梅仔坑初改為梅子。後更改為小梅。夫梅坑月霽。為諸羅八景之一。不若改為梅坑。易于記憶識別且有詩景。鹽水港改為鹽水。該處有島彎月古稱月津。內臺人均能識此。不如稱之。樸仔腳瀕海。相傳昔未命名。有一大樸樹。人集樹下家焉。因取名朴仔腳。後曾稱曰朴津以其改為朴子。既若改為朴津尤妙也。
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Richter 威望 +1 - 2009-06-12
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「市郡の區域稱呼其所在地並街庄の稱呼等に就て」

州廳課長 水越幸一

『臺灣時報』大正九年十月號


 (上)市郡に就て

 新制度に依つて生ぜる市郡の數は三市四十七郡、街庄の數は二百六十三で、外に臺東、花蓮港の二廳を存置し、其の下に六支廳を置き街庄の外十八區に分つたが、以下此行政區劃中、先づ市と郡の設定より多少の辯を試みやう。
 市は先づ、臺北、臺中、臺南の三都、に實施したが、之れ必ずしも其他の州廳所在地、即ち新竹及び高雄の如き又基隆嘉義の如き如上の三市又は內地の小都市に比して必しも著しき差異を認めない。然し其間尚ほ若干の準備年月を置き、先づ三市の實驗の後を逐ひ、徐ろに市制を布くも未だ遲しと云ふべからずと考へ、先づ以上の三都を先にしたると考へられる。內地に在つても現に千葉縣廳所在地千葉、宮崎縣廳所在地宮崎の如きは未だ市制を布かぬ例もあり、大分等近かく市に進んだ例もあり。こゝに先づ此等三市を認め、他は此の先蹤に從ひ相次で市制實施の機運を見るべき事と、期待する次第である。
 郡設定の綱領は大要以下の數項を原則としたるものである。
 即ち蕃地のみの郡を置かず、蕃地は必ず平地と併せ一郡を成すを以て根本原則とした。
 此原則が、郡の面積、人口等種々の方面に影響を及ぼした。斯る方針を執れる所以は、蕃地のみの郡を設くるに於ては、平地郡との間に自ら差別的城壁を生ずることゝなり、此方は蕃地なりとて官吏の氣分にも或は弛緩を生ぜざるなきを保せず隨つて開發の上にも影響する所大なるべく、平地に之れを併合するに於て始めて兩者の懸隔を接近せしめ、平と蕃と兩々相攜へて事に當るの平和的良風を釀成するの因となる。即ち蕃地の開發が要とする人夫の派遣も、蕃民日常の需用品の供給も、自ら圓滿に取扱ひ得るの便宜を生ずる。斯る郡に於ける郡役所の所在地は云ふ迄もなく平地となし、蕃地には理蕃の必要上、往々別に警官派出所を置き、處に依りては警視を配置することゝした。而して全島中の
 最大郡は高雄州の屏東郡面積百十八方里
 最小郡は同州の澎湖郡面積 七方里
 而して郡の平均面積は三十六方里で內地一郡の二十九方里より大なること七方里となる。
 各郡の區域や稱呼等に就いては後項更に詳說すべきも、差當り屏東郡が百十八方里といふ大面積を包容するに至れる所以を辯ずるに、平地に於ては屏東街外六庄に過ぎざるも、上述蕃地併合の原則から之れを包容することは甚だ多く、蕃社の數は實に三十六社の多數に及ぶが為めで、其郡衙所在地は舊名阿緱なる屏東、即ち郡の極南の一隅なれば或は此方六龜(舊六龜里)を分離して一郡を形成してはとの見解も之れなきにあらざるも、斯くては未だ到底自立の力なく、依つては今後蕃地の開發を待つことゝし、暫らく此大面積を擁して益々餘力を蓄積し、後日の準備を為さんとするものに他ならぬ。
 尚此等に附言すべきは蕃社ライフンロクは元と阿緱廳下なりしが故に今度の改正には屏東郡管內たるべきものだが、此處の蕃族は境を越へたる臺東廳下なる鄰蕃と同族で、中央山脈の地勢の關係から云ふも寧ろ臺東に屬せしむるを以て適當とするが故に、此機に於て高雄州から除去して、新に臺東廳に屬せしむることゝした一事である。此種の例は新竹廳にもあるが是亦後項に讓ることゝしやう。澎湖郡の最小なる次第は別に說明を要すまい。
 人口最も多きは臺南州嘉義郡-十五萬二千餘人
 最も少きは臺北州蘇澳郡-一萬三千餘人
 全郡を通じたる平均は七萬人で、內地一郡の平均六萬九千に對し、略々均衡を保つもの。
 嘉義郡の人口大をなす所以は、郡の面積も大なる上に平地の部分が屏東、能高、新高の諸郡に比し比較的多いためで、又其面積の大なるは畢竟阿里山鐵道と、後年の市候補地たる嘉義街とを包容するが為めに他ならぬ。
 若し阿里山鐵道を兩郡の管轄に分離する如きことあつては、其管理上頗る困難で、萬事が甚だ不便となるのみならず、嘉義は將來の市候補地として、必ず郡から分立される時代が來るべきか、然らば嘉義を除去された後の力は、一郡として立ち得るの餘力ありや否や、此點も豫め念頭とせねばならぬ。即ち竹頭崎方面を割いて一郡となし得るの餘力もないから、此一大郡となつて人口の最も多きを示す所以である。
 臺北州蘇澳郡の人口一萬三千で、最も少き所以は、同地は元と羅東支廳下で、現に新制でも羅東郡を置いたが、平地に蕃界を合するの原則から、南方の蕃界をも之に併合するとせば、地域も廣過ぎすのみならず、郡衙の所在が此方に偏することゝなる。乃で是亦支廳所在地たる叭哩沙を三星と改め羅東郡に編入して蘇澳を分立し、若干の平地と共に蕃地を包容して開發に便ならしめんとした結果に他ならぬ。
 一 畢竟、郡の大小は、歷史、地理、交通、產業、人口、民族等の關係を考慮した為めで、其地域の廣大なるものに至つては、例へば上述嘉義の場合の如く、郡役所々在地が他日市として獨立する場合の餘力をも考慮した為めのものもある。(詳細郡別說明參照)
 二 郡名には其地方の舊堡名、土名、若しくは其地域內に存する山河名を秉つて名付けたが、其等の名稱や郡衙の所在地が、稱呼字畫の複雜なるものは、適宜之れを變更又は省略した。(同右)
 三 郡役所の位置は成るべく在來の支廳所在地の一を擇ぶを以て原則としたが、地域の狀況や、交通關係や、在來の支廳相互間の關係や、將來の趨勢等に鑑みて、是迄の支廳所在地以外にも新に郡役所を設けたところもある。七星(臺北)、大屯(臺中)、新豐(臺南)、竹南(新竹)、虎尾(臺南)、新營(臺南)、蘇澳(臺北)、等は其例である。次第は、是亦漸次後項に說明しやう。
 四 當然郡役所を設けらるべき實力を有する街庄でも、其直ぐ附近に更に便宜な大都邑がある為めに其選に漏れたものもある。臺中州下彰化郡の鹿港の如きは其好適例で、若し彰化が附近に無かつたら、無論郡衙を設置せらるべきところである。
 五 一郡內實力の伯仲する街庄が互立する場合は、郡所在地を止むを得ず甲の街庄に決したとせば、郡名を乙の街名庄から採り、以て民心融和の方法とした。例へば臺北州廳下三峽(舊三角湧)と板橋(舊枋橋)の場合に、郡名は舊三角湧の堡名なる海山を用ひ、郡衙所在地を板橋とし、臺南州の東石郡では、郡名を東石港に採つて郡衙を朴子(舊樸仔腳)に置いた類である。
 六 市に郡を置いた理由は、市附近の村落は內地でも同じことで、市を中心とし生命として存在する。故に何角に市に對して便利を有するからで、現に福井市の如きは、附近二三郡の郡衙所在地となつて居る。臺北市の七星郡役所、臺中市の大屯郡役所臺南の新豐郡役所も亦之れが為めに他ならぬ。
 七 市に郡衙を置いた場合は、郡名は市名と異にしたが、嘉義、基隆等の市候補地が、將來市制を布く場合には、是亦市名と郡名とを異にする必要がある。此場合には市名を換へずに郡名を換ふるを以て原則とし度い。
 以下各郡に涉つて特殊の說明を要するものゝ為めに、個別に多少の辨を試みやう。

 一、臺北州

●七星郡(郡所在地、臺北市) 汐止(水返腳)、士林、北投、松山(錫口)等の名邑を包括する同郡は、其名稱を臺北市郊の名所たる圓山に因んで圓山郡と稱せんかとの議もなつたが、今回大臺北市の實施と共に、臺灣神社境內より明治橋以南を凡て臺北市に編入することゝなつたので、それも妥當ならず、依つて郡內の名山たる七星山に因んで決したる次第である。
 郡衙所在地に就いては、汐止、士林、松山の三邑鼎立して互に相遜らざるものあるが然し此等の都邑も凡て臺北市を中心として居るから內地の多くの例により萬事の便宜上、寧ろ臺北を以て之れが所在地と決定するが、相互の得策なるべきを思うてゞある。
●羅東郡(郡所在地、羅東) 蕃地開發と東臺灣の小港邑たる蘇澳自體の發展とを念して、舊羅東支廳下の蘇澳を割いて同名の郡衙の所在地としたことは上述の如くだが、殘餘の舊羅東支廳下と、舊叭哩沙(新名、三星)支廳下とに若干の蕃地をも含ませ羅東郡を設定した。郡所在地を羅東街としたのは、鐵道線路にも當り、萬事の便宜からである。
●蘇澳郡(郡所在地、蘇澳) 說明前出
●文山郡(郡所在地、新店) 郡內には、新店、深坑、坪林(舊坪林尾)等の元支廳所在地たる名邑鼎立して居るが、就中新店は臺北に近かく、而已ならず蕃社開發上最も便宜たるを以て、郡所在地と決定した、文山とは新郡に通ぜる重なる堡名なるを以て、採つて郡名となしたるもの。
●海山郡(郡所在地、板橋) 板橋(舊枋橋)と三峽(舊三角湧)との二名邑を包める同郡は、郡所在地を板橋としたが是亦地の利を得たるものである。枋は板の略字なれば、枋橋を變じて最も見易き板橋とした次第である。
●新莊郡(郡所在地、新莊) 新莊(舊新庄)街を中心とせるもの。新庄の庄字は、往々街庄の庄と混亂し易きを以て、莊字を以て換ふることゝした。

 二、新竹州

●大溪郡(郡所在地、大溪) 大溪の一街と龍潭の一庄とに數多の蕃地の蕃社を編入して一郡とせるは、是亦蕃地開發の為め平地の一部を加へたるものである。舊大嵙崁を改めて大溪となし、更に之れを郡名となせるは、地勢に由つて命したるに過ぎぬ。
●竹南郡(郡所在地、竹南) 郡所在地は全然新なる場所である。之は將來海岸線の分岐點で地方の重要なる交通上の中心となることを豫想し設けたもので、其の郡名は堡名を採つたものである。
●大湖郡(郡所在地、大湖庄) 元支廳所在地大湖を以て郡所在地となし、同時に郡名としたものだが、地勢上から察するに大安溪を以て郡界とするのは適當でなく、寧ろ更に東方の、峻嶺屏立して自然の障壁を為す分水嶺を以て境界とすべきである。即ち舊來の支廳の境界線を一層擴げて、舊臺中廳管內の小雪山、大雪山、シルビヤの諸峰に迫つた所以である。

 三、臺中州

●大屯郡(郡所在地、臺中市) 墩字を屯と換へ、庄名に因んで命名した郡名だが、郡衙の所在地を臺中市とした所以は、前述の如く附近の土地は市に最密接の關係を有することゝ管內特に郡所在內として擢用すべき都邑が無いことからである。
●豐原郡(郡所在地、豐原街) 舊葫蘆墩を中心とした一郡を置いた同地方は所謂コロトン米を以て知らるゝ米產地なるを以て、其吉祥に因んで葫蘆墩を豐原と改め、更に郡名としたのである。
●東勢郡(郡所在地、東勢) 東勢角を東勢と改稱し、多くの蕃社を加へて同名の一郡となし、蕃社の開發に便とした。
●大甲郡(郡所在地、清水) 大甲、牛罵頭、沙轆等の名邑を藏する同郡は、牛罵頭が中間に位して最も繁榮の土地だが、其稱呼は甚だ卑俗たるを以て、島內でも最も清水の湧く處だから、之れを清水と改め、茲に郡衙を設け、郡名は大甲溪大甲帽大甲庄等、名の賣れた大甲の名稱をとつたのである。
●能高郡(郡所在地、埔里街) 元南投廳下の埔里社を埔里街と改め、霧社支廳一帶の蕃地を編入して能高郡を設定した。面積から云へば屏東郡に並んでの大郡である。其の名は能高山が其の區域內に在るのに因んだのである。
●新高郡(郡所在地、集々庄) 集々と魚池とに、臺灣アルプスとも云ふべき一萬尺餘の連山を包容する蕃地を編入せるものを新高郡とした。郡衙は集々庄に之れを置く。現時完成に近かき八通關越は花蓮港廳玉里に通ずる。蕃界橫斷道路は道を集々より、陳有蘭溪に沿ふものにして恰かも新高登山左土右反路に當り又東京帝國大學の農學部に於て、新高山への實習には路を之れに取り途中溫泉場の適地あり將來益々有望の街道筋となるであろう。日本の最高山たる新高山の一部は其區域內に跨つて居るので、之に因んで命名したのである。靜岡縣の富士郡と富士山の關係の如きものである。
●竹山郡(郡所在、竹山庄) 元南投廳下、林圮埔を竹山庄と改め、竹山郡を設定した。此新稱は、地方一帶が臺灣中でも豐富に良い竹を產することに因んだものである。

 四、臺南州

●新豐郡(郡所在、臺南市) 其郡衙を臺南市に置いたのは、是亦臺北の七星、臺中の大屯の場合と同じ。新豐の名は舊堡名である。
●虎尾郡(郡所在地、虎尾庄) 虎尾溪の貫流する所なるを以て此名を生じた。郡衙所在地に就ては西螺と土庫と五間厝と三候補地があつたが交通關係其他より、五間厝を以て適當と認め、虎尾と改稱せられた。
●嘉義郡(郡所在地、嘉義街) 前述の通りである。
●新營郡(郡所在、新營庄) 西方には著名なる鹽水港あり、東方には名邑店仔口(新名白河)がある。新營庄を以て郡所在地としたのは、交通上の理由に基くものがある。畢竟此地方の交通機關は西方から中央の鐵道幹線に向つて開かれて居るので、若し鹽水港を郡衙所在地とするに於ては、幹線の東方なる店仔口方面からは、一旦後壁上艸下寮(新名後壁)へ出て新營庄で下車し、更に西方に向はねばならぬ。さらばとて店仔口を以て之れに代ふれば是亦同樣の不便に陷る。故に新營庄を以て郡衙所在地に充て、郡名を之れに取つた次第である。
●東石郡(郡所在地、朴子街) 郡內には東石港と樸仔腳(新名朴子街)とを有して、何れも互角の地位を保つが、後者は中部の便宜の位置にあれば、之れを朴子と簡略し、東石を以て郡名となせるもの。
●北門郡(郡所在地、佳里庄) 北門郡も亦以上の類で、北門嶼から郡名を採り、蕭壟を堡名に因つて佳里と改め、郡衙所在地とした。
●新化郡(郡所在地、新化街) 西北隅には灣裡(新名善化)、東北隅に近く左口右焦吧哖(新名玉井)、南方には大目降(新名新化)を有する同郡の郡役所々在地を舊大目降、即ち新名の新化に擇んだのは、同地の尤も大にして地勢上にも適當と認めたからである。

 五、高雄州

●高雄郡(郡所在地、高雄街) 舊名打狗を高雄に變へ、之れを中心として一郡をなせるもの。文字を高雄となし、州名にも適用するに至れる次第は、街庄の名稱變換を說明する所に讓る。
●旗山郡(郡所在地、旗山街) 舊蕃薯上艸下寮を旗山と改稱し、此處に郡衙を設け、屏東郡と共に蕃地の一部を併せて、一郡を形成す。旗山と改稱したるは、蕃薯上艸下寮を飾る秀麗なる巒峰の名稱に因めるもの。
●屏東郡(郡所在地、屏東街) 說明前出

 六、臺東及花蓮港廳

 六支廳十八區(外に二街一庄)を有する此二廳下には特に記する程のものもないが唯臺東廳下の北東海岸一帶に涉る新港支廳は、舊上艸下麻荖漏社が、花蓮港や臺東に船の寄泊し得ぬ時でも繫留し得らるゝを以て、之れを新港と改稱し、將來の發展を期し、支廳名とされた。
 又巴塱衛太麻里兩支廳は合併して大武支廳と改稱し、巴塱衛も大武と改めた。之は大武山から取つた名稱である。
 又花蓮港廳下の研海支廳とは新城支廳と內タロコの蕃地を包括し、前年佐久間總督時代の大討伐と深き關係を有するところから、故總督の紀念として其雅號研海を秉つて用ひたのだが、適々此地方海岸の地勢は、巖壁崔嵬削れるが如く海に逼つて、研海といふの地勢上からも頗る適切なものがあるは好因緣である。
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Richter 威望 +1 - 2009-06-12
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「市郡の區域稱呼其所在地並街庄の稱呼等に就て」

州廳課長 水越幸一

『臺灣時報』大正九年十月號


 (下)街庄に就て

●新制度に依る街庄數は全島を通じ二百六十三、他に區の數十八にして、之れを現行の區役場の數四百五十五に比する時は百七十四を減じたる譯なり。
●街庄の面積は最小一方里(高雄州潮州郡枋山庄)、最大十三方里(高雄州旗山郡甲仙埔庄)、平均四方里半にして之れを內地の一町村平均二方里二に比する時は、二倍強に當る。然し近時交通機關發達し、今後も益々發達の途にあれば比較的大なる區域を劃定するも差したる不便を感じないであらふ。
●斯く、街庄の面積廣大、人口多數ならしめたる所以は、
 (イ)財政の主體として地方公共の事務を處理せしむる為め、必要なる負擔力を有せしめんとすること。
 (ロ)內地に於ては町村の區域狹小なるが為め、完全に自治能力を發揮する能はず、為めに數町村共同して事業を經營するの狀態にあるもの鮮からず、本島に於ては此等の事情に鑑み、街庄の公共事業の經營に支障なからしめんがため。
 一、在來街庄の稱呼及其文字には、或は俗にして不快の感を與ふるが如き(打狗、牛罵頭の類)、或は劣惡にして口にするだに恥づるが如き(糞箕湖の如き)、又或は字畫複雜にして容易に知らし得ざるが如き(左口右焦吧哖、阿罩霧其他多數)、若しくは同一又は類似の名稱の他地方にも存在するが如き(臺中市と舊苗栗支廳下の公館。臺中の關帝廟と臺南の關帝廟等)の類少からざれば斯る場合は、全然名稱を變ゆるか、若しくは字畫を簡略にした。
 此事に就いては街庄有志の間から續々其變換を申出づるものあり、依つて當局に於ても住民の希望に隨つて之れを實行せんとしたるも、試みに彼等の希望する新名稱を言はしむれば、孰れも『高砂』『新高』の如き名稱のみ重複となるか、然らざれば在來の六つかしい因襲的稱呼に對する反動として甚しく突飛なるを擇び、到底一時に足並を揃へて改變するの困難なる事情あり、依つて當局に於ては今回の機を得て、最も著るしきものに就き若干の改名をなし、今後徐々として他に及ぼさんとの意志である。
 二、舊稱の改變は主として左の標準に據る。
 (イ)二字以上のものを二字に縮少す。(例)坪林尾-坪林。北門嶼-北門
 (ロ)扁、旁、冠を省略す。(例)上艸下寮-寮。份-分。仔-子。什-十。佃-田。崗-岡。坵-丘等。
 (ハ)便宜略字若くは、本字を用ふ、(例)墩-屯。左水右粵-澳。枋-板(枋は板の略字枋橋は板橋とせしも枋山、枋寮は其儘)
 (ニ)音、訓の類似せる文字に換ふ。(例)打狗-高雄。打貓-民雄。左口右焦吧哖-玉井。
 (ホ)三字稱のものは二字に縮少したる上、更に字音に依つて文字を換へたるもあり。(例)咸菜硼-關西。茄苳腳-佳冬。
 (ヘ)地方の山川の名や、其地勢や特長に依つて命したるもあり。(例)葫蘆墩-豐原。牛罵頭-清水。大嵙崁-大溪。三角湧-三峽。店仔口-白河。錫口-松山。林圮埔-竹山。
 (ト)其意義を取つて名け、全く、舊來の文字にも字音にも關せざるもあり。(例)羌仔上艸下寮-鹿谷。港仔墘-小港。
 (チ)在來の字音に隨つて之れを美化し、醇化す。(例)援巢中庄-燕巢。打狗-高雄。
 (リ)簡單優雅なる堡名を以て代ふ。其例甚だ多し。
●大要以上の標準に基いたものだが以下若干特殊のものに限つて多少の辯を試みやう。

 一、臺北州

●松山(舊稱錫口)、附近の丘岡には、島內稀に見る松林を有す。
●汐止(舊、水返腳)、基降河は滿潮時に際し、此地迄汐がさすと云ふ。
●三芝庄(舊小基隆)、芝蘭三堡に出づ。
●基隆街、或は桐生、或は雨港等の諸說出でしも、結極現在の儘とす。
●三星庄(舊、叭哩沙)、三星山に出づ。
●板橋、三峽、前出

 二、新竹州

●關西庄(舊咸菜硼)、前說音便以外に、又蕃地の西關に當るを以てなり。
●六家庄(舊六張犁)、其の意義を採る。
●峨眉庄(舊月眉庄)、峨眉山月半輪秋、影入平羌江水流(李白)に秉つて一層美化す。

 三、臺中州

●西屯、南屯、北屯の三庄、大屯郡內の舊西大墩、犁頭店、三十張犁の新稱。地理上鼎立して斯く呼ぶことの甚だ妥當なるに因る。大屯の郡名も茲に發す。
●佳冬庄(舊茄苳腳)、前出
●竹山庄(舊林圮埔)、前出
●鹿谷庄(舊羌仔上艸下寮)、前出

 四、臺南州

●玉井庄(舊左口右焦吧哖)、前出
●柳營庄(舊查畝營)、舊名は女軍の兵營を意味せるものなるを以て、其意を取る。
●白河庄(舊店仔口)、白水溪に因む。
●民雄庄(舊打貓)、口牌に依れば、福建民族は虎二匹を本島に移して討蕃の具に供した。蕃人其一を此地に、他を打狗に殺したが何れも虎と云ふものを知らぬ、此地のものは目して貓と云ひ、打狗のものは狗と言つたので各々其庄名となすに至つたものだと言ひ傳へられてる。依つて、今回其音に擬して彼れを高雄と改め、此れを民雄となし、孰れも雄字を用ひ、是迄の如く一對の稱となす。
●斗南庄(舊、他里霧)、斗六街の南の意。
●朴子街(舊、樸仔腳)、樸仔を簡にして朴子とし、腳を除去す。
●虎尾庄(舊、五間厝)、虎尾溪に沿ふに因る。

 五、高雄州

●高雄街(舊打狗)、打狗の舊稱の起りは臺南廳下打貓の際に併せ述べたる通りだが、打狗とは其文字甚だ卑俗にして、其港灣の優秀で、將來益々世界的に發展すべき土地には相應しくない。鐵道全通式に際し、時の司法大臣岡部長職子が來遊の砌りにも其卑俗なる稱呼にも似ず、港灣の優れたるに、
 たかを(打狗)くゝつて今日來て見たが
    これは高雄で首つたけ
 と謠つたことがあり、先年大谷光瑞師も、土地の發展から其稱呼を改めざる可らざるを唱へた事があつた。同音で而かも內地の名所の一たる高雄の字を用ひ、之を郡名とも州名ともなした所以である。
●岡山庄(舊阿公店)、大崗山小崗山に因む。
●小港庄(舊港仔墘)、前出
●屏東街(舊阿緱)、古來屏東の別名を以て稱し來り、今回土地の有志の希望もありたるに由る。
●佳冬庄(舊、茄苳腳)、舊稱より腳を除去したるものと字音相似たると、鄰郡には恆春の名邑あるに對し、佳冬と一對となさんとせるもの。
●滿州庄(舊蚊蟀庄)、其堡名の一なるが鄰郡東港郡には琉球庄あるを以て、自ら之れと一對をなし、發音又相似たるものがある。
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Richter 威望 +1 - 2009-06-12
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只看该作者 13 发表于: 2009-05-31
「臺灣の地名改正に就て(上)」

田原天南

『臺灣日日新報』大正十一年十月一日


 田爵督が 任に臺灣に蒞まれてから既に四年、卓厲風發吐哺握髮頓に臺灣の面目を一新せられたるは何人も俱に瞻る處で、田爵督が初代文官總督として、劍佩錚錚の嚴めしき過去七代の武人總督に打つて代はり、峨冠博帶、文雅無腰の態度で來任せられた事は既に臺人に好感情を與へ、內地延長主義、內臺同等主義、政策の同化、教育の共學等短かき歲月の間に著著と其の抱負經綸を實行せられた、殊に二大政績は自治制の斷行と民商法の施行で、前者に在つては深く民意を尊重するの意を示めし後者に於ては彌々內地延長の實を舉げたもので共に多年の二大懸案を始めて解決したのであつた、近電によれば廣く門戶を開放して、有能の臺人を登庸する事となつた、要するに爵督の施設云為は孰れも世界の進運に伴ひ、時代の要求に應じたる新政である事は中外齊しく認めて爵督の功勳に歸する次第である、就中吾人の感ずる處は此等の大問題も爵督が親しく中央政府議會に提案すればすらすらと恰かも竹が刃を迎へて解くるが如く、直ちに解決する事實で、如何に爵督の個望が內外に重きを為して居るかは說明を待たず明白なのである、先哲曰く百術ありと雖も一清に若かずと、吾人は更に一轉語を下して曰はん、百術ありと雖も一誠に若かずと即ち爵督の百事を貫いた一誠が、中外を感受した結果と斷ずるに躊躇しないのである
 地名改正 と云ふ一事は如何なる動機、如何なる必要から起つたか、吾人は之を詳にしない、民意が其の改正を促がしたか、統治上改正を餘儀なくされたか、其邊の委曲も吾人は與り聞かないが、傳ふる處によれば、地名改正は前民政長官下村宏氏の發意で、長官に信賴した爵督は唯だ長官の上申を認めたに過ぎない、長官の改正を必要とする說明中には恐くは改正が臺人の利便である、教化に必要であると云ふ理由も含まれて居たであらうと思ふが、吾人は臺灣史編纂委員の末席を污して居る關係上、臺灣に關する古書舊記を繙閱展讀して、地名の民族歷史と大關係ある事を認め、是れが改變には慎重の注意を要する事を痛切に感ずるのである、國の東西、時の古今を問はず、其國の地名は其國の歷史、沿革、變遷、地理に大關係あり、假令へば獨逸には伯林附近にさへ純獨逸語にあらざる先住民の名稱少なからず、露國の波羅的沿岸州には純スラブ語ならざる獨逸語系の地名が多い、此等の例は歐米各國に其類多く東洋も亦同樣で、我日本抔でも富士山は元來本州の先住民なるアイヌ語なりと云ふ說もある斯く歷史、地理、民族、沿革に密接の關係ある永久的地名を、一時の便宜により其時の官憲が任意に朝改暮變すると云ふ事は謹んで避くべき事で、新開の部落にありては、其の命名は任意で可なるも數十百年の歷史の附著して離るべからざる地名は成るべく舊名を維持する方が、實際に於で利便でもあり又嚴意の尊重でもあり、是れが卻つて同化を促進する所以であらう
 滿洲青島 露國が旅順大連を經營するや、新開の都市なので、露國は勝手に露國名を命じたが、我日本に改隸と同時に或は日露戰史の偉勳者の姓を取り或は駐屯軍隊の原隊所在地名を取り若くは我國名を取り全然日本式とした。大連の山縣通、大山通、寺內通、兒玉町、乃木町、近江町、信濃町、羽前町、淡路野等はそれである、此の名稱は餘りに無味乾燥なので改正を主張する者はあるが、日露戰史の關係を無視するものとして、忽ち眾論に壓せられ今日まで成り立たない、青島も同樣で、獨逸の租借時代は市街を支那人地區と歐洲人地區との二に大別し、支那人市街には上海街、天津街と純然たる支那式街名にして居住する支那人の好むに任せたが歐洲人地區にはビスマルク街、モルトケ街、カイゼル、ウイルヘルム河岸等純獨逸式であつた、日獨戰爭後は支那人地區は其儘とし歐洲人地區の市街名だけを大連同樣日本式に改正した、是れは實際の利便からも起り統治上の必要からも起つたのであるが、臺灣は是れと全く趣きを異にして居ると思ふ
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Richter 威望 +1 - 2009-06-12
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「臺灣の地名改正に就て(中)」

田原天南

『臺灣日日新報』大正十一年十月三日


 地名起原 地名は淵源あり起因あり、決して偶然咄嗟に成るものにあらず、從つて是が改變も亦偶然咄嗟に出るを許さないのである、凡そ一國の地名は文野を論ぜず、土地の實形、地理の狀態、產物の種類、歷史の記念、口碑の記傳等に出づるもので、單に其名を聞き字に接しただけで、坐ながら地理、風土、物產、歷史の一斑を會得する事が出來るものである、命名の初に當り其選擇を謹しむべきは勿論であるが、襲用久しきに亙つた後、何等の思慮なく地名の起原に頓著せず、輕輕に之を改變すれば
 此貴重な 意義のある地名を破壞し、後世をして考據すること能はざらしむる遺憾を遺すのである、現に北海道の地名選定に於て其殷鑑を見るが、北海道の地名はアイヌの附したる者凡一萬今も猶十中八九はアイヌ語の和譯で、原語の意義は山川、草木、地理、產物、歷史、口碑を傳へ、甚だ趣味深く、且實際に便なものであつたにも拘らず、強ひて無理な漢字を當てたるが為め、原義原名を常つたものが少なくないと云ふ事である(永田方正氏著北海道蝦夷地名解に據る)地學雜誌に於て某氏は其病源を痛論して曰く
 北海道の蝦夷地名は皆近世殊に今代の擬定寄譯に由り統紀なし其の病源は官府の文字公定に當り、選擇の宜しきを失へるに在り(下略)
と實に然りで、是は獨り北海道に限りたるにあらず、他にも其類例が多い事で、我臺灣に於ても清朝時代既に此病源があつたのである然るに其病源を更に重ねて益々地名の紛亂を來すと云ふ事は吾人の贊成に難かる所である
 臺灣地名 の起原に就て孫元衡氏の赤嵌集に曰く「臺地諸山皆從蕃語譯出」と、獨り山名のみならず、臺灣の地名は蕃語に出でたる者頗る多く、蕃語蕃音に近音の漢字を當て、近似の成語を假借して轉訛を強制せし者少なくないが、今や原義を失ひ、淵源の不可能なるものも亦多い、臺灣史の權威である伊能梅陰氏の「臺灣地名考」によれば、臺灣地名の起因は
 一、自然の形勢位置に本づきたるもの
 山頂、山腳、大埔、崁腳、中崙、深坑等の類、樹林、林口、林仔邊、坪林尾等の類、溪洲、溪尾、港仔嘴、海口、深澳、澳底、湖頭の類、沙崙、大沙崙等の類
 一、自然特殊なる地勢に本づきたるもの
 光山、圓山、枕頭山、玉山、插天山、五指山の類、三叉河、雙溪、鹽水溪の類、龜山嶼、香爐嶼、馬鞍嶼の類
 一、特殊の天產物の存在に本づきたるもの
 樟樹林、楠仔坑、龍眼林、九芎林、大[左木右康]榔、[上艸下麻]園、菁埔等の類、鹿滿山、鯽魚潭の類、鹽埕、磺山の類
 一、山河勝蹟及建物等の存在に本づきたるもの
 枕頭山庄、觀音山庄、曾文庄、鯉魚潭庄、仙洞庄、鶯哥石庄、龍井庄の類、枋[上艸下寮]、田[上艸下寮]、油車、蕃薯市の類、土城、石圍、隘[上艸下寮]の類、媽宮、媽祖廟、關帝廟、太子宮の類
 一、歷史的沿革及古來の傳說に本づきたるもの
 紅毛城鄉、紅木埕鄉の類、五軍營、果轂後、林圮埔(鄭氏の部將林圮の開拓地)吳全城(道光年間吳全の開墾)の類、烏鬼埔(和蘭人の奴隸とせる黑人)關公店(阿公は福建語の老翁敬稱)
 一、拓殖及建置の當初に於ける情形に本づきたるもの
 五十二甲、三張犁、十六結、三圍等の類、新庄、新興、新店、舊庄、舊街の類、蕃社、舊社、社後、蕃仔[上艸下寮]等の三間厝、八塊厝等の類
 一、拓殖及び建置の當初に於て佳字を擇んで地名とせしもの
 彰化(清の雍正年間顯彰皇化の義に取る)恆春(光緒の初年瑯[左王右喬]の蕃地に一縣を新設)の類、文賢、仁和、文寧、永豐、長興、崇德、維新等の類(鄭氏時代)宣化、仁壽、至厚、德和、永靖、安定、長樂、治平等の類(清朝光緒の初年新設縣恆春管內に命名)八卦山(彰化)の類
 一、移住者が其の原地の名稱を移し又は之に或る意を寓せしもの
 潮州、東石港、烏牛欄、阿里史、芝山巖、福興庄、廣興庄の類
 一、歷史的の動機に因めるもの
 嘉義(清の乾隆末年、林爽文の亂に士民義を守り公に奉ぜしに因る)舊港、迴馬社の類
 一、蕃語に近音の漢字を宛てたるもの
 諸羅、羅東、艋舺、歡慈市、紅毛城、苗栗、狸里、八芝蘭、大嵙崁の類枚舉に遑あらず
 臺東及花蓮港は專ら內地人の手により新たに開拓されたが故に、純日本的地名が多い、花蓮港に於ける吉野村、豐田村、林田村、大和村、瑞穗村、三笠村、壽村、賀田村等、臺東に於ける鹿野村、大原村、月野村等は即ちそれで、單に此等の臺灣地名を聞き其の字面を見ただけで坐ながら地理、風土、物產、歷史の一斑を會得する事が出來るので、無意味に輕々之を變改する事の非は、何人も首肯する處であらう
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Richter 威望 +1 - 2009-06-12
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只看该作者 15 发表于: 2009-05-31
「臺灣の地名改正に就て(下)」

田原天南

『臺灣日日新報』大正十一年十月四日


 臺灣開闢 の上古は邈たり、得て考ふべからずであるが後漢の時代既に支那と交涉があつたと云ふは誤謬で、隋の開皇年間僅に澎湖島が支那に知られたに過ぎない、隋の大業三年煬帝が臺灣を探險せしめ たるも、是亦何等政治的連絡が無い、其以後も鄭氏降服、清朝歸命までは支那との關係が密接でなかつた、之に反して日本と臺灣との關係は西曆一千四百五十年乃至一千六百二十八年即ち百八十年の長きに亙りて(我後花園天皇寶德二年、足利義政時代より後水尾天皇の寬永五年德川家光時代支那明の景帝景泰元年より同思宗崇禎元年)
 密接連絡 あり南に於ては臺南、安平、北港、北に於ては基隆地方が我胡蝶軍、八幡船の根據地たり、又我移住民の少なからざりし事は種種の史實及濱田彌兵衛と和蘭領事と葛藤の歷史が證明して爭ふべからざる事實であるが、德川の鎖國令と共に、日臺の關係交涉が全然斷絕した事は喋喋の辯を待たない。要するに臺灣は古來寄合世帶で馬萊人、蒙古人の雜居地である、先住民の馬萊族即ち生蕃の前に如何なる民族が居住せしかは人類學者も今日迄何等の發見もない、既に各民族の寄合世帶なるが故に地名も亦
 寄合的の 雜駁で、殊に先住民の蕃名が多いのである、此蕃名、蕃音を漢字で近音漢譯したるが故に、雅訓を缺き無意義難解の地名が少なくない、漢譯に當り、意義ある漢字の誤解を避けんとの注意から故らに口偏を添へ、人偏を加へたるもの少なくない、(叭哩沙、[左口右焦]吧哖、哆囉嘓の類)此等は時代の進步に從ひ改正の必要を生ずべきも、是が改正には民意を尊重して地方關係の內臺人に諮詢する等慎重の手續を履むべきで、無造作無頓著に改變を敢てすべきものでは無いのである、臺灣改隸來近數十年迄の記憶によれば地名の改正は
 五指十數 にも足らぬ程で雅訓ならずとして阿猴を阿緱とし、阿里山中の一部落糞箕湖を奮起湖と改めし類に過ぎず、其他は總べて舊に依つたのであつた、地名改正の方針として漫然と三字名を二字名に切り詰め或は上下の字を削除し、或は偏旁を取り去りたるが為め歷史的の地名を無意味ならしむるが如きは大に考慮すべき事である(名蹟鶯歌石の石字は削られ、二八水の八を削りたるが為め婦人に關した妙な名となり、頭份の份の人偏を削りたるが為め頭足を異にするの不祥な名となる其他の類例多し)吾人は地名の改正を絕對に非とする者ではない、
 難解佶屈 の地名を整理改正する事、行政改革、土地分合の關係上、或は堡を廢して郡と為し、或は大加蚋堡を七星郡とするの類、強ち不可とせざるも、吾人は上來既述の理由により、地名は單純なる符號にあらず、歷史上地理上の關係あり、或る場合には世界との交涉もあるから、是が改正には切に鄭寧慎重の注意を請ふ次第である。吾人は本島史蹟名勝天然物の保存を切望する者で之に關しては他日卑見を述ぶる積りであるが、本島の開闢は遠からず、且各民族の移住地寄合世帶なれば史蹟は多くない
 又名勝も 同樣であるが、日本、西班牙、和蘭、鄭氏、清朝と幾多の時代を經過し來りたれば、臺灣に取りて貴重の史績や勝蹟が決して鮮ないとは言はれない、我北白川宮殿下の御遺跡所、伏見宮殿下の御露營地始め近三十年の史績中にも未だ保存法の講ぜられていないものもある、況んや數百千年前の史績に於てをや、往往風雨に浸蝕され、若くは心なく破壞されて、永久に消滅するものもあらう、吾人は和蘭、西班牙時代の遺跡も保存したい、鄭氏時代、明朝遺跡清朝史績も保存したい、臺南彰他各地の文廟や曹公祠、吳鳳廟等の寺廟
 忠孝節婦 の旌表も保存したい、圓山の世界的大砥石、阿里山の大神木、胡蝶蘭や穿山甲等の世界に類の鮮ない天然物動植物も保護したい、更に此等より以上に歷史、人心に關係ある地名は輕輕に改正したくない、成るべくは舊名を尊重したいのである、若し夫れ、地名改變より生ずる實際上の影響は、官にありては土地臺帳始め總べての方面の改正を要すべく、民にありては是又帳簿、印形の改正、關係者への通知、社會への廣告等其手數と費用も鮮なくない且つ之を慣用する迄には數年の長き歲月を要するのである
 移風易俗 は容易の事にあらず、又輕輕に決行すべきものではない、又必ずしも之を決行すべき必要も無いのである、歐米諸國を旅行するに、獨り各國各個特殊の風俗習慣あるのみならず、一國內にあつても都鄙譬る處に特殊の習慣風俗あり、而もあれ程國際的の社交が頻繁で、民族宗教が(日耳曼、拉丁、スラーブの民族、新舊教の差はあれども同じく白人種基督教信者)同じき歐米にも此特殊な風俗習慣が、永久に保存され、鄭重に尊敬されて居る、地名の保存には最も深く注意され
 世界戰の 結果、露國では國都のペーテルスブルグが獨逸名なりとて、スラーブ式にペトログラードと改正したが、平和條約の結果各國の領土に變化があつたが、地名は各國とも悉く其舊によつて居る。同化政策は事事物物必ずしも劃一的に外形上の同化を強ひざる處に、卻つて妙用真諦が存する。自然の力に打ち勝たんとするは不自然なるが故に吾人が寒帶若くは熱帶の風土に自ら進んで服合する事が生存の條件なるが如く、吾人が臺灣經營に於て或る場合、或る部分臺灣の事物に共鳴同情する事が、真に是れ同化を促進し、內臺を密接ならしむる捷徑である、形なきに視
 聲なきに 聽き、民眾の心理に通ぜられ、人情の機微を穿たるる田爵督は箇中の消息には何人よりも靈犀早く通ぜられる事は言迄もないが、吾人は爵督の雅懷真意に達しない地方官憲あらん事を杞憂し聊か鄙見を述べた次第である
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Richter 威望 +1 - 2009-06-12
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只看该作者 16 发表于: 2009-05-31
「成功した地名改正
 下村博士の懷古談」

『臺灣日日新報』昭和六年八月三十一日


足かけ七年の民政及び總務長官として臺灣統治の要職にあつた下村宏博士は大正十年七月任を去つてから恰も十年になるが、此の程十年振に臺灣の地を踏んだ下村博士の素直なる臺灣觀は何人も聽かんとする所であらう、その點について同博士は鐵道ホテルで謙遜しながら「まづ自分の仕事の中で成功したと言ひ得るものは大正九年新地方制度採用と一緒にやつた地名改正くらゐのものであらう」と言つてゐる。その點について下村氏は大要次の樣に語つた

 いろいろ仕事もやつたやうに思ふがさて成功したといふものは然うあるものではない、まア今日から見ても成功と思はれるのは大正九年臺灣式のむづかしい地方名を內地式に改正した仕事くらゐのものだ。この間???の安田勝次郎君などが來ての話に花蓮港の璞石閣を玉里と改めた當?など土地の人々は何んだ女郎屋のやうな名ではないかとくさしてゐたさうだが數年後に玉里へ行つて見ると昔は璞石閣なんて呼んでゐたさうだと不思議さうに話してゐたとかで笑つたことだが左樣な例は他にもあらうと思ふ、新化郡[左口右焦]吧哖庄を玉井に、臺中の葫蘆墩を豐原に、牛罵頭を清に改めたなどは地名改正の著しい例だが當時殆ど凡ての街庄に亙つて地名を改めた、之を改正するに別に調查委員といふ樣なものを作つたわけではなく何せよ地方制度と伴うてやるといふので非常に急いでやつた、今日北海道などを旅行した人は知つてゐるだらうが、地名の改正をやらなかつたので隨分ひどいのがあり惱んでゐる、臺灣の改正された地名の中にも後になつてまづかつたと思ふのもあるが先づ今日になつて見ると大體に改正した方が好かつたといふ風に考へられる

因みに此の種の地名改正の代表的のものには水返腳の汐止、枋橋の板橋、林圮埔の竹山、灣裡の善化、打貓の民雄等あり今日より考へて地名の簡易化により利益してゐる點は頗る多いものがある
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Richter 威望 +1 - 2009-06-12
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只看该作者 17 发表于: 2009-05-31
「臺灣漫感
 二十八、地名改正」

下村海南

『臺灣日日新報』昭和六年十月十二日


朝日丸で臺灣入りの船中にて同船の某客は、昭和製糖會社臺南州新化郡玉井庄といふ所書付の名刺を出して、この玉井はもと六づかしい字でタパニーと申しましてといふ、その人がもう十數年在住の人である
僕はその[左口右焦]吧哖といふ字が六づかしいところから、清水がわくので玉井と改名したのだよといふと、ハハアさうですかといふ。成る程十年一と昔だと思つた
臺北に入りて安田勝次郎翁に此話をすると、改名の直後東海岸玉里へいつたら、玉里なんて女郎の名のやうチヤラチヤラしてる、矢張り璞石閣がよいといふ聲がかなり高かつた、此程又玉里へいつたらもうその昔璞石閣といつた事を知らなかつたといふ。成る程十年一と昔だなと思つた
中部へ出かけた時楊梅壢を楊梅としたので、土地の人がいやがつてるといふ話があつた。それは病名など連想するといふ、僕は當時地名改正には幾十回となく議をこらしたか分らない、最後に
內務局長川崎卓吉 地方課長水越幸一 臺日尾崎秀真 經世新報稻垣兵衛 本山理太郎 臺日魏清德
の六氏と卓を圍みて一日額をあつめて意見を交換したが、楊梅についてもさうした非難が無いといふ事であつたやうに記憶すると答へて置いたが、後日魏清德君に此事を話したら、まだ面白いのは大湖口が湖口となつた、ところがその後土地がさびれて來たので、改名のため糊口に苦しむといつてますよといふ笑ひ話を聞いた
打貓が民雄になる打狗が高雄になる、葫蘆墩が豐原となる牛罵頭が清水となる、臺北で手近いところが大嵙崁が大溪となる、水返腳が汐止となる、錫口が松山となつたといつても、もう恐らくはアア左樣かといふ位になつてる。成程十年一昔だなと思つた
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Richter 威望 +1 - 2009-06-12
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hqq
只看该作者 18 发表于: 2009-06-03
這些資料太好了阿
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